日本におけるIT導入と抵抗によるとん挫の歴史
1960年代~1970年代: 電子計算導入と伝統的手法の対立
1960年代後半から1970年代、日本では高度成長期に入り企業や官公庁で電子計算機や電子式計算機(電卓)の導入が始まりました。しかし、現場では従来の手計算やそろばんへの信頼が根強く、技術的には可能でも心理的抵抗が存在しました。
例えば、電卓が普及し始めた当初、熟練者の中には電卓の計算結果を信用できずに改めてそろばんで検算する人もいました[2]。実際に、シャープはそうした需要に応えて 「そろばん+電卓」の複合機まで商品化しています[2]。当時はまだ電卓が高価だったこともあり、「人間の計算力」の方が信頼できる・コストがかからないといった考えが根強かったのです。また、大型コンピュータについても一部では「計算機械に頼ると人減らしにつながる」との労働組合の懸念や、「高価な機械は一部の大企業にしか不要」との見方があり、社会全体としてはIT導入に慎重な空気がありました。もっとも、こうした抵抗は技術進歩と価格低下の前に次第に薄れ、1970年代には安価なカシオミニ電卓(1972年発売)のヒットで電卓は一気に普及し[2]、企業でも基幹業務に大型コンピュータを導入する動きが本格化していきました。結果的に、そろばん等への拘りは技術の波には抗しきれず、電卓やコンピュータの有用性が社会に受け入れられていったのです。
1980年代: メインフレーム依存とパソコン普及の遅れ
1980年代に入ると、欧米ではパーソナルコンピュータ(PC)の登場によりオフィスの情報処理が分散化・個人化していきました。しかし日本企業はメインフレーム(大型汎用機)中心のIT体制に強く依存しており、PC導入が相対的に遅れる要因となりました[3]。多くの企業では情報処理部門がホストコンピュータを管理し、社員一人ひとりが自分のPCを使って業務をする文化が根付きにくかったのです。その結果、日本でオフィスにPCが行き渡り始めたのは1995年のWindows 95発売以降で、一般社員まで含めた普及率が高まるのは2000年前後と言われます[4]。実際、1990年代には「部署に1台」のPCをみんなで共有し、資料の清書や表計算だけに使うといった状況も多く、21世紀になってようやく一人1台が当たり前になりました[4]。この背景には「コンピュータ操作は専門部署や秘書の役割」という旧来の発想や、大型機への信頼があり、経営層も当初PC導入の効果を疑問視していたことがあります。
さらに、日本独自の要因として国内メーカー独自規格への固執も挙げられます。1980年代から90年代前半にかけ、日本のPC市場ではNECのPC-98シリーズが圧倒的シェア(8割近く)を占める独自路線を歩んでいました[5]。PC-98は事実上日本の標準機でしたが、世界標準のIBM PC/AT互換機とは仕様が異なりガラパゴス化していました。そのためDOS/V(IBM互換機で日本語を表示できるDOS)の1990年登場以降も、しばらくは国内で互換機が苦戦するほどで[5]、日本がグローバル標準のPC普及に乗り遅れる一因となりました。このメインフレーム依存と独自路線への傾斜は、結果的にオープンなパソコン環境への移行を遅らせたのです。しかし無意味だったのは、最終的にPCの時代到来は避けられなかったことです。1990年代後半にはNEC独自路線も崩れ、Windows搭載のPC/AT互換機(いわゆるDOS/V機)が日本市場でも主流化しました[6]。また、大型機中心だった企業ITもダウンサイジング(小型安価なサーバへの転換)の波に抗えず、2000年代には日本も「メインフレーム大国」とはいえ市場縮小が進みました[6]。2007年時点でも日本のサーバ市場出荷額の約4分の1をメインフレームが占め欧米より高比率でしたが[6]、これは裏を返せば日本企業がそれだけ長く旧来型ITに固執していたことの表れです。結局、PCとオープンシステムへの流れは不可避であり、メインフレーム偏重は将来的なIT刷新を先送りしたに過ぎなかったのです。
1990年代: インターネット黎明期と通信分野の迷走
1990年代はインターネット革命の時代ですが、日本ではこの波に乗り遅れた面がありました。当時、日本の電気通信業界はNTTの独占体制が続き、通信インフラ整備やサービス展開において保守的な姿勢が指摘されていました[7]。インターネット接続にはまず電話回線を使ったダイヤルアップ接続が必要でしたが、NTTは1985年の民営化以前は公衆回線でのデータ通信を原則禁止し、新興のパソコン通信ネットワークなどに消極的でした[7]。自由化後も市内通話の従量課金制や高額な専用線料金により、一般家庭が長時間インターネットを使うには通信コストが大きな障壁だったのです[8]。
さらに戦略的な誤判断として、NTTは1990年代後半にISDN(デジタル回線網)を推進し光ファイバーへの直行を目指すあまり、世界で普及し始めたADSL技術に消極的な姿勢を取りました。NTTはADSLについて「ISDNの周波数帯域に干渉する」「一時的な繋ぎに過ぎない」と主張し、当初導入に難色を示したのです[8]。実際、NTTはADSLの試験提供に非協力的で、他事業者による実験も地方の回線で細々と行われる状況でした[8]。NTTのこうした抵抗や官庁の許認可の遅れもあって、1999年前後の日本のブロードバンド展開は官僚的手続きと「サボタージュ」的妨害で進展が遅れたと指摘されています[8]。しかし2000年前後から流れが一変します。通信自由化政策の強化と、新規参入の通信事業者による価格破壊で、ADSLが急速に普及し始めたのです。特に2001年にソフトバンク(Yahoo! BB)が参入し、NTTより高速・低価格のADSLサービスを全国展開すると、あっという間に申込が殺到し市場が動きました[8]。NTT自身も方針転換を迫られ、ADSLサービス(フレッツADSL)に乗り出すとともに光ファイバーの提供も徐々に拡大せざるを得なくなりました[8]。このように、NTTのISDN偏重とADSL忌避は明らかに誤った判断であり、日本のインターネット普及を一時的に停滞させました。結果的には競争圧力に屈してADSLを解禁したことで、日本は2000年代にブロードバンド先進国へと巻き返すことができましたが、その過程でユーザーは不必要な高コストや低速回線に甘んじる期間を強いられたのです。インターネットという技術の波も結局押し寄せ、抵抗は無意味であったことが示されたと言えます。
2000年代: ガラパゴス携帯の栄華と失速
2000年代、日本の携帯電話業界は一見、世界最先端を走っているように見えました。NTTドコモのiモード(1999年開始)に代表されるように、携帯でインターネットやメールを使えるサービスが普及し、カメラ付き携帯、ワンセグテレビ(携帯向け地上波デジタル放送)、おサイフケータイ(非接触ICによる決済)など 独自の高機能携帯電話(ガラケー)が次々と登場していたからです[9]。しかし、これら日本独自仕様の「ガラパゴス携帯」に業界全体が傾注したことが、結果的にはスマートフォン時代への移行を遅らせ、日本企業の競争力を低下させる要因となりました。通信キャリア各社は自社専用の携帯OSやサービスで顧客を囲い込み、他社への乗り換えを困難にするなどロックイン戦略を取っており[9]、国際標準から孤立した市場が形成されていたのです。
転機は2007年に訪れます。この年にアップルが初代iPhoneを発表しスマートフォンの革命が始まりました。もっとも初代iPhoneは日本の通信方式(GSM非対応)に合わず直後は影響がありませんでした[9]。しかし2008年に登場したiPhone 3Gから状況は激変します。ソフトバンクが2008年にiPhoneの販売契約を結び、日本でも本格的にスマートフォンが利用可能になると、先進的なユーザーを中心に急速に広まり始めました[9]。ドコモは自社プラットフォームに固執して当初iPhoneを扱わない選択をしましたが、これが裏目となり顧客が流出します。2009年にはドコモもAndroid搭載のスマホ(HT-03A)を発売し[9]、国内他社も慌てて追随しましたが、時すでに遅く日本の携帯端末メーカーの多くはスマホ競争で後手に回る結果となりました。実際、2010年時点で日本の携帯市場に占めるスマートフォンの比率は22.7%でしたが、わずか9年後の2019年には89.7%に達し[9]、従来型携帯(ガラケー)は少数派となりました。特にiPhoneはおサイフケータイのFeliCa機能など日本向け仕様を素早く取り入れたことも奏功し、日本のスマホ市場で64.8%という圧倒的シェアを握るまでになっています[9]。一方、かつてガラケーで世界をリードした日本メーカーの多く(シャープ、富士通、NEC等)はスマホ事業で苦戦し撤退する例も相次ぎました。これは 「自前の携帯文化があれば十分」と過信しグローバル標準への対応を怠った誤算と言えます。結局、市場はオープンなiOS・Androidに席巻され、ガラケー偏重は意味をなさなくなりました。技術的には優れていても世界の潮流を無視したガラパゴス化は、長期的には日本企業に不利であったこと
が証明されたのです。
2010年代: デジタル化の停滞 – ハンコ文化と行政ITの遅れ
2010年代に入っても、日本社会の一部には紙とアナログ手続きへの固執が残り、IT導入の足かせとなりました。象徴的なのがハンコ文化です。

契約書や申請書類に押印する習慣が根強く、電子署名やオンライン申請への移行が進みにくい状況が長らく続きました。実際、総務省の調査では2020年時点で約1万5千種類の行政手続きの99%以上で押印が求められており、法律でハンコ必須と定める手続きも多数存在しました[10]。そのため、どんなにIT技術が進んでも「結局紙に印刷して押印のため出社」といった非効率が温存されてきたのです。この背景には、「ハンコを無くすと不正防止や承認プロセスに支障が出るのでは」という組織的な不安や、単に前例踏襲の慣習がありました。行政手続きのオンライン化(いわゆる電子政府)も、欧米に比べ日本は遅れがちで、長年「世界最先端IT国家」を標榜しながら紙の書類・FAXが幅を利かせていたのです。こうした状況が大きく変わり始めたのは、皮肉にも新型コロナ禍(2020年)でした。リモートワーク推進の必要性から、政府は一気に脱ハンコ宣言を打ち出し、省庁手続きの押印義務を原則廃止する方針を決めました[10]。従来ハンコ文化を擁護していた勢力(印章業界や一部役所)も、この流れには抗しきれず対応を迫られています。「判子を無くすなんて無理」という抵抗は結局のところ思い込みに過ぎず、デジタル化による効率向上という時代の要請には逆らえなくなったのです。
また、行政ITシステム導入の遅延も2010年代の課題でした。代表例が住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)です。これは全国民に11桁の番号を付与して行政サービスを一元管理する基盤ですが、2002年の稼働当初、プライバシー侵害への懸念から地方自治体の中に参加を拒否する動きがありました。実際、稼働開始日の時点で東京都杉並区、国分寺市、横浜市、福島県矢祭町など6自治体が住基ネットへの未接続を表明し、大きなニュースとなりました[11]。その後も裁判闘争や住民運動が起き、システムの本格稼働には時間を要しました(最終的には法改正等で全自治体接続)。このように個人情報保護や監視社会化への根強い不安が、ITシステム導入のブレーキとなったのです。さらに後継のマイナンバー制度(2015年開始)でも、国民の不信感から個人番号カードの交付申請率が低迷し、政府がポイント付与など普及策を講じてもなかなか浸透しない時期が続きました。行政のデジタル化は便利さ向上に不可欠でしたが、国民や現場職員の理解・協力を得られないと 「宝の持ち腐れ」になりかねないことが浮き彫りとなったのです。こうした抵抗も、結局は世代交代や意識改革により薄れつつあります。2023年現在、デジタル庁の創設やマイナンバーカードと健康保険証の統合など改革が進み、遅れていた分野を挽回しようとしています。しかし、その陰には「やはり早くから進めておけば良かった」という反省があり、抵抗による遅延は結果的に国民の利便性向上を先送りしただけだったと評価できるでしょう。
2020年代: AI導入への挑戦と頓挫事例
直近の2020年代には、人工知能(AI)や機械学習の技術が飛躍的に進歩し、行政や企業でも活用が模索されています。しかし、新技術への過度な期待や現場とのミスマッチから導入が頓挫するケースも現れており、「第4次AIブーム」の中で日本社会が直面する新たな抵抗と誤算とも言えます。
一つは自治体におけるAIチャットボット導入の失敗例です。例えば香川県三豊市では、住民からのゴミ出しに関する問い合わせ対応にAIチャットボットを試験導入しました(いわゆるゴミ分別案内サービスのPoC)。ところが実際に運用してみると回答精度が低く、最終的には市職員がAIの出す答えを全件チェックせざるを得ない状況であることが判明しました[12]。肝心の職員負担軽減につながらず、曖昧な回答も多かったため、この実証実験は本格導入に至らず中止という判断が下されています[12]。当初期待された「便利で効率的なAIサービス」は実現せず、住民対応は従来通り人力に頼る形に戻りました。この事例では、「AIに任せればうまくいく」という安易な目算が外れたわけですが、裏を返せば精度向上や現場知見の反映なくしてAI導入しても意味がないことが浮き彫りになったと言えます。
もう一つの例は、国のこども家庭庁(旧児童相談行政)におけるAI導入失敗です。同庁では、児童虐待の発生リスクをAIで予測し、児童相談所職員のケース対応を支援しようという試みがなされました。しかし開発されたシステムは現場の業務実態を無視したものとなっており、使おうとするとかえって担当者の負担が増す有様でした[12]。さらに、現場の職員がシステム開発プロセスに関与しておらずニーズが反映されなかったことも問題視され、結局このプロジェクトは計画自体が頓挫(中止)してしまいました[12]。本来は深刻な人手不足を補うはずのAIが、逆に邪魔者になってしまったのです。この背景には、「とにかく最新技術を導入すれば解決するだろう」という上層部の思惑と、リスクを恐れて現場がAIの判断を信用できないという心理的抵抗の双方があったと推察できます。結果として巨額の開発費や時間が無駄になり、AIそのものへの不信感も残る形となりました。
これら2020年代の事例は、技術そのものより社会・組織の準備不足や誤った期待のかけ方が導入失敗の原因となっている点で共通しています。本来AI技術自体は急速に進歩して有用性も高まりつつあるにもかかわらず、運用面の詰めが甘かったり人間側の意識改革が追いつかなかったりすると、せっかくの最新技術も活かせないという典型です。しかし長期的に見れば、これらも一時的なつまずきに過ぎず、やがては改善され乗り越えられていく可能性が高いでしょう。かつては電卓やコンピュータ、ネットワークがそうであったように、有用な技術であれば最終的には社会に受け入れられるからです。現にチャットボット一つ取っても、別の自治体では住民サービス向上につながった例も出始めており、要は抵抗や失敗から何を学んで次に活かすかが重要と言えます。技術の進歩に組織や社会の側が追いつくまでタイムラグがあるのは常ですが、その間の抵抗や誤判断はあくまで一時的なブレーキであり、最終的な流れを止めることはできない点は過去の教訓が物語っています[2][9]。
結局、抵抗しても技術の波に飲み込まれる
以上、1960年代以降の日本におけるIT技術導入の紆余曲折を時系列に振り返りました。電卓導入期の心理的抵抗、メインフレーム偏重によるPC普及の遅れ、通信業界の戦略ミスによるインターネット黎明期の出遅れ、ガラパゴス携帯に固執した結果のスマホ敗北、そして行政・組織文化が招いたデジタル化停滞やAI導入の空回り――いずれの時代にも技術そのものの未成熟ではなく、人間側の要因で導入が遅延・縮小・中止となったケースが存在しました。これらの抵抗や判断ミスは当時の文脈ではそれなりの理由があったものの、後から振り返れば 「結果的に導入が進んだ」例がほとんどです。つまり、抵抗それ自体が無意味だった(技術の進歩と普及をただ遅らせただけだった) ことを歴史が証明しています。日本社会はしばしば新技術に慎重で、「石橋を叩いて渡る」傾向があると言われますが、その石橋を叩きすぎて渡るのが遅れれば、国際競争力の低下や国民生活の機会損失につながりかねないという教訓も得られます[9]。幸いにも、日本は遅ればせながらも最終的には世界標準に追随・適応してきました。今後もAIやDX(デジタルトランスフォーメーション)など新たな波が押し寄せる中で、過去のとん挫事例を教訓とし、的確な判断とタイミングで技術を受け入れていくことが求められるでしょう。不必要な抵抗を減らし、イノベーションの恩恵をいち早く享受できる社会になることこそ、人類が積み重ねた教訓の活かしどころではないでしょうか。
「超知能人工知能(AI)の開発禁止」の行方
禁止法が制定され、あらぬ疑いから裁かれたり、信念を試されたりする世の中にだけはなってほしくないですね。


